会報『あすなろ』2013年6月号

支部長の独り言 『○○道』

風景

日本人は『~道』という言葉が好きです。武道に限らず、茶道、華道、書道などの文化的なものから、およそ道とは、かけ離れていると思われる、野球などの外国生まれのスポーツも野球道などと言ったりします。本場アメリカでは、大リーガーがガムをくちゃくちゃかみながらプレーしたり、グランドにつばをはいたりという姿をよく見かけますが、日本では野球場に入る前に礼をしたり、甲子園球場の土を持ち帰ったり、道具を誠心誠意みがいたり、本場のアメリカ人から見ると不思議な行動をとるのが日本人のようです。身の回りのいろいろなものを『道』として、人生を豊かに送るための『精神修養』として捉えていこうというのが、武士道から脈々と続く日本文化の伝統のようになっていました。

かつての日本文化は、(現代日本人の多くがあこがれている)西洋人から高い評価を得ていたのです。明治維新で数多く招かれた外国人の多くが、“日本は貧しい国だが、貧困がない”と日本の文化を絶賛していたのです。人々の暮らしは決して豊かではなかったですが、みんな生き生きと自分の稼業に精を出し、笑顔で働いていたのです。荷物を置きっぱなしにしておいてもなくなることがない。人々は、みな正直で親切。江戸100万都市を、町奉行所配下数百人で守っていたのは有名な話です。
それがいつの間にやら、すっかりアメリカナイズされ、物的には豊かな国になりました。しかし、一方で人々の心はどうなったのでしょうか?気がつけば、街のあちこちで、いい歳をした大人が平気で立ち食い、歩き食いをしています。「食べたい時に、食べたいものを食べればいいじゃないか」今では、ごく当たり前のような考え方ですが、ちょっと前までの日本人には「みっともない」と映ったはずです。それが今では、年配の人でも“歩き食い”をするようになっています。その結果、ゴミのポイ捨て。肥満の増加。と心と体の両面に、大きなひずみを生み出してきています。有り余る物質によって、日本人は物の大切さだけでなく、物を大切にする心さえ失ってきています。何でも手に入る。は、自分の好きな物だけ食べ、好きなことだけやっていい社会を作ってきてしまっています。

お金持ちの住む豪邸を見たとします。誰しもが「うわ~すごいな~、自分も住んでみたいな~」と思います。ところがその後が2つに分かれます。1つが「この人は、すごい苦労・努力をしているんだろうな」と感じる人。これがかつての日本人でした。大金を稼げるようになるにはそれなりの理由があるわけです。それを手に入れるまで、きっとその人はつらい修行をしたり、人が寝ている間に努力を重ねたりしているのです。かつての日本人は、成功の象徴から、それまでの経緯(その人のしてきた努力)を見ることができたのです。
もう1つが、最近特に増えてきている「ちきしょ~、俺がこんなに貧しいのに、いい暮らしをしやがって。爆弾でも投げ入れてやろうか」と、感じる人です。最近アメリカであった爆弾テロなどまさにこの典型。自分の努力の足りなさを顧みず、みんな人のせいにして「あいつが悪い、社会が悪い…」

今、武道が正規の科目として学校教育に取り入れられています。武道が取り入れられた本当の目的は、本来日本人が持っていた美意識、努力をした人間が強くなる(成功する人は努力をしている)など、当たり前のことが当たり前に通用する社会を取り戻すためと考えられないでしょうか?人間の欲望は限りがありません。体が成長しきってしまわないうちに、心を鍛えておかなければなりません。我が子の、痛い、辛い姿を見るのは、親としては我慢できない気持ちになることもあると思いますが、それを乗り越えた者と、そうでない者には大きな差となってきます。本人の自由がきかない時間・空間である道場は、ある意味、貴重な場所かもしれません。

子どもたちの未来を信じて…。

支部長 重田紀元

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