会報『あすなろ』2015年8月号

支部長の独り言 『武道論Ⅲ』

先日市原で行われた大会を見ていて、武道というものについて改めて考えさせられました。以前から武道とスポーツの違いについては、何度か述べてきました。技の優劣だけでなく、万が一の事態を想定し、自らを律し鍛えていく精神性を持っていることが、日本の武道が世界に誇れるところだと思っています。

技に限って言えば、全空連ルールだろうが、松濤館ルールだろうが、強い人はやっぱり強いのだと思います。物理学によれば、与える衝撃の強さは“速さ2と質量の積”で表されます。つまり、体重が同じなら、速い突きや蹴りが出せる選手は、威力のある突き(拳の硬さも重要です)や蹴りを出せるということです。問題は、それが試合でどのように評価されるのか、ということです。今回の試合で特に気になったのが、審判の技量でした。空手の経験があまりなくても、全空連に加入すれば簡単に黒帯になれ、容易に審判の資格を取ることができると聞きました。一般の部の試合といえば、かつては子どもたちの手本となるようなものでしたが、今回の大会は子どもの方が(空手としての)レベルが高いと感じる選手が多く、更に審判のレベルの低さ?も加わり、見ていてがっかりしました。審判によって勝敗が決するのですから、審判はその責任を全うするために精進していくべきです。残念ながら、審判を含め、大会役員の姿勢(政治的?、名誉優先?)が見受けられることがありました。例えば、試合が始まってしばらくして、競技が白熱してきた頃でした。突然全コートで試合が中断されたのです。開会式に遅れた?全空連の偉い(?)先生が到着し、挨拶が始まったのです。選手にしてみれば、今まで精進してきた成果を試す試合を競技中に中断されるなど、武道の試合としては絶対あり得ないはずです。遅刻してきた偉い先生を待たせてはいけない「すぐに挨拶してもらおう」という発想は、礼儀ではなく、媚びへつらいの発想です。しかも、その挨拶の内容が「空手がオリンピックの種目になるかもしれない。日本の空手が世界のKARATEになるのだ」と。以前にも述べたように、日本の柔道が世界のJUDOになった時“日本人にだけ有利にならないように”“外国人にもわかりやすいように”という理由からルール改正(改悪)がなされ、武道の精神は薄れていきました。その結果“どうみても戦いにふさわしくない髪型”や“勝敗が決まると畳(会場)上で感情をあらわにする”など
“礼に始まり礼に終わる”という精神からは、かけ離れたものとなっていきました。オリンピックの商業化、サッカーのFIFA役員の汚職など、スポーツ選手と運営サイドの思いがかけ離れてきている現状です。県の空手の役員が100名以上いて、なお「なりたがっている人がたくさんいる」という話を思い出しました。地位や名誉を求めることも悪いことではないと思いますが、我が道場は、武道の精神(いざという時、自分の身と大切な人を守れる力・気力を養っていく)だけは失いたくないと思っています。試合が終わった後(特に負けた選手の)礼ができない選手が多かったです。そんな気分の悪い中、我が道場の選手は全員が、最後の礼がしっかりできました。これは何より誇りに思えることです。何度も言うことですが、空手で飯が食える人は、ほとんどいません。己の心と体を地道に鍛えていくことを忘れてしまっては、武道を学ぶ意味がありません。

支部長 重田紀元

アーカイブ

Top