会報『あすなろ』2016年5月号
支部長の独り言 『神棚の消えた道場』
退職後の再雇用で、10年ぶりにある中学校に赴任しました。その中学校のある自治体はリッチ(だった?)なので、市内全ての中学校に武道場(柔道場と剣道場)があります。しかしせっかく立派な施設があっても、近年の生徒数の減少と共に武道人口も減少していて、柔道部がなくなってしまった中学校もあるのです。当校は幸いにも1年生が7名入部し、何とか「廃部」という状況(2年生が2名しかいない)からは救われたようです。それはさておき、今年も柔道部の副顧問となり、子どもたちと共に楽しく稽古ができる喜びを得ることができました。
その中学校の武道場に入ってちょっと驚いたことがあります。剣道場の神棚を見ると、なんと榊(さかき)が供えられているのです。私が中学校の頃は道場には必ず神棚があり、1年生部員の仕事の一つが、神棚の榊を枯らさないことでした。ところが、ここ数年のことですが武道場の神棚から宮形(神社の形を模したもの)が取り外されるようになりました。どうやら「学校が特定の宗教に偏ってはいけない」という意見に配慮した結果のようです。
ここ数年以前にも増して『妙な平等意識・権利意識』が蔓延(はびこ)ってきているようでなりません。例えば政治の世界でも「議員の住んでいる宿舎の家賃が安すぎる」という報道がなされると、そこに住むのが悪いことかのように議員宿舎を利用しない議員が出てきます。何万票という得票を得て選ばれた議員が“有事の時に素早く国会に駆けつけられる場所に安価で住むこと”程度の特権を持つことが「庶民感覚とかけ離れている」などというナンセンスな発言で変更させられてしまう世の中になってきています。その結果「本当に力のある議員がいなくなり“悪いこともしないが、何もできない”庶民レベル?の議員だらけになってしまっている」と感じているのは私だけではないと思うのです。
我々日本人は、人間の力ではどうにもならない出来事、不思議なことを神(鬼という場合も)の仕業として、崇め敬い、全ての物に神が宿っている(八百万の神)という発想をしてきました。確かに文明が発達し、いろいろな現象(災害)が科学的に解明され、説明がつくようになってきましたが、全ての事が科学で説明できるようになったわけではありません。正月になれば、「新しい年の息災を願い」神仏に願をかけに出かけたり、彼岸や命日には、先祖の墓参りに行く人はたくさんいます。目に見えない先祖の徳や神仏の力を忘れない『おかげさま』という発想は、我々日本人が世界中の人々から尊敬される民族でいられる大きな柱の一つだと思います。過去に何度も述べたことですが、武道とは、人生をどのように生きていくべきかに一つの解答を与えてくれるものだと思うのです。アメリカ的な発想も悪くないとは思いますが、全てが正しいものとは思いません。目先の物事にとらわれ小さな事柄を潰して満足し、大きな惨禍の種を残してしまってはならないのです。マスコミや他人の言い分に振り回されず、自分の物差しで動ける人間になっていきたいものです。
支部長 重田紀元
