会報「あすなろ」2019年3月号 「一歩踏み出す力」
出てくるのです。
長欠児は「今は出たくない」を優先するのです。
その僅か今学校では、不登校の生徒が増えています。
かつての経験からすると、ほとんどの場合、少なからず「本人」にも原因(心の弱さ・ずるさ)が
ある場合が多いのです。今の時代こんなことを言うとすぐに“人の気持ちがわからない人権意識
のない奴”というレッテルを貼られバッシングの対象となってしまいます。しかし、わずかでも
本人にある原因に目を向けず、行政だとか法律だとかに原因をなすりつけている限り、何も事態
は改善されないはずです。
親の虐待によって小さな命が奪われた事件でも「学校の対応が…」とか「児童相談所の…」と
行政の対応のミスにばかり非難が向けられています。最も悪い、虐待を行った親に対しての責任
論、そしてその親が「なぜ我が子の中の1人にばかり虐待を加えたのか」などという、その子の
持つ要因については一切触れられることはありません。学校という組織が、急激に教育力を失っ
てきた状況については、過去に何度か述べてきた通りです。
今の学校の先生は、ホテルマンのようです。先生が進んで生徒に「おはようございます」と敬
語で挨拶し、廊下で生徒と出会えば道を譲る。サービス精神?のかたまりです。一方生徒は「何
かしてもらう」のが当たり前、風邪が流行っているといえばマスクが支給され、好きな時に「水
分補給」という名目でドリンク…。あげたら切りがないくらい生徒は『優遇?』されています。
かつて義務教育の学校とは、社会人になるための土台を作る場所でした。しかし、今では『個
人の権利』ばかりが主張され『個人の義務』はどうでもイイのです。今の生徒は、我慢するとい
うことがほとんどありません。ですから、何かちょっと不満があれば「もう嫌だ」となり原因を
他人になすりつけ排除しようとするのです。今、この発想が日本の社会全体に広がっているので
す。
長欠児の親は、一生懸命車で子どもを学校に連れて行き「学校に行ったので出席ですよね」と
言い、先生も「よく来ました、たいへんですね」と優しい言葉をかける。誰もそんなこと(数分顔
を出したので登校?)して、その子のために何の役に立つのか?ということは言いません。
3年(小学校は6年)すれば卒業してしまうのですから、親の気分を害させてまで説教はしないので
す。親は自らの行動(送迎)に満足し、将来やってくる不安から目を背け、進歩のない毎日を送るの
です。こうして未来の引きこもりが誕生します。
以前ならまず、家族みんなと起きて朝食を一緒に食べることができるよう親に指導です。どんな
人も朝布団から出るのは億劫なものです。しかし“やらなければならないもの”のために布団からな
甘えが許されると、どんどんエスカレートしていきます。子の生活のリズムを作ってやるのは親の
責任です。それができるようになったら、家事を手伝わせます。当たり前のことに、たくさんの人
の手が加わっていることを理解させ、社会に出ても最低のことができる力をつけさせるのです。
寒い(暑い)時期、稽古に出かけるのは億劫なものです。しかし、その気持ちに負けず、一歩踏み
出す度に“嫌なことに打ち勝つ力が少しずつついてくる”のです。そして「心も体も強い子」はいじ
めの対象となりにくいのです。心の強さ+肉体的な強さは、今の学校教育の中では、なかなか手に
入れることができません。

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