会報「あすなろ」2020(令和2年)年1月号 「改めて武道的生き方を考える」

あけましておめでとうございます。「令和」初めての正月を迎えました。

今年もまた、みんな元気に年を越せたことに感謝しながら、頑張って稽古に励んでいきたいと思います。

過去何度も触れたことですが、武道の良いところは、運動の得意不得意に関係なく、続けていけばかな

りのレベルまで到達できることだと思っています。当道場もいろいろな人が入会し、何人かは去ってい

きました。みんなそれぞれの事情があるのでしょうが、長く続く人とそうでない人には、はっきりとし

た差がある気がします。それは“空手が楽しいと感じる”かどうかです。

始めは「この子大丈夫だろうか?」と感じる子がいます。稽古に来ていてもあまり楽しそうに見えませ

ん。親に連れられ嫌々ながらに来ているのかもしれません。では、そんな子が必ず辞めてしまうかとい

うと、そうとは限らないのです。空手が続いた子に共通することは“ある時から目つきが変わってくる”

つまり自分から「強くなりたい」「うまくなりたい」「楽しい」といった喜びを見出した子は、そこか

らぐんぐん伸びていきます。親としては「我が子がだらだらしている」姿は見たくないものですが、そ

んな時も、もう少しのんびりと我が子を見守って欲しいと思います。どこかでスイッチが入るかもしれ

ません。何度も言うことですが、今の時代、ある程度の肉体的・精神的な強さを持つことは、人生におい

て計り知れないプラスになると思います。例えば『いじめ』…、昨年は教師による教師へのいじめが大

きな話題となりました。いじめを主導した側の教師(女帝などと呼ばれ己を見失っていたのでしょうが…)

は最低ですが、(申し訳ないですが)いじめられた教師にもがっかりさせられました。人間を育てるはずの

教師が、我が身に降りかかる災難に対して何の解決力を持っていないなんて…。事が公になってから「僕

はこんなことをされました」…。あまりにも情けないです。学校の先生と塾の先生との違いは、勉強を教

える他に“生き方を教えられるかどうか”です。お勉強だけやってきて、社会の理を学ばぬまま教員試験に

パスして…。残念ながら今の学校、こんな先生が多く(良い先生もたくさんいるのですが…)なってしまい

ました。

『武道的』とか『武士道に学ぶ』とか言うと何かとても大袈裟なことのように思いますが、私は日常生

活の中の“ほんのちょっとした考え方ができるかできないか”なのだと思っています。例えば「武士は食わ

ねど高楊枝」は、武士の清貧や体面を重んじる気風ややせがまんを表す言葉ですが、不便(不自由)さの中

から満足・幸せを見いだせる力を表していると考えるのです。現代文明は“いかに不便さをなくすか”とい

う方向性を以て発展しています。現代人はなるべく不便がないよう、不自由を受け入れないように生きて

います。でも必ず不満は発生するのです。これに“どう対応するか”の答えが『武道』なのだと思います。

試合で勝つことだけを考えれば、拳の握りは緩く(見かけ上長くなる)てもいいかもしれませんが、(ないに

越したことはありませんが)万が一ナイフを持った通り魔に遭遇してしまった時“いい加減な突きを出す事

=致命傷”となる可能性があります。普段の稽古から『万が一』を考え稽古するのが武道です。武道を学

ぶ道場では、精神的な修行の面を忘れたくないので練習と言わず敢えて『稽古』と言うようにしています。

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