スポーツと人格
大晦日のWBO世界スーパーフライ級タイトルマッチで、田中選手に勝利し2度目の王座防衛に成功した
井岡一翔選手。“左腕のタトゥーが見えた状態で戦ったこと”が問題となっています。それはJBC(日本ボ
クシングコミッション)の規約に“入れ墨など観客に不快の念を与える風体の者は、試合に出場することが
できない”という条項があるためです。
しかし、当の井岡選手は「海外の選手が(入れ墨をして日本のジムに所属し)日本で戦うのは可能なのに、
日本人はダメというのは一貫性がない」と持論を主張しているといいます(1/22厳重注意処分に)。
過去に何度か触れたように、日本のスポーツは、教育の一環として広まっていきました。遊びから生まれ、
発展していった欧州のスポーツと違い、お上主導で導入されたスポーツは「健全なる精神は健全なる身体に宿
る」と、あくまで人間形成の手段として捉えられてきました。
例えば、野球のグランドを考えても、本場アメリカでは『単にお金を稼ぐ場所』。ですから、平気でグラン
ドにつばを吐きますし、ベンチでピーナツを食べても、平気で殻を捨て(大谷選手が殻を紙コップに入れて話題
になりました)ます。
ところが日本では、グランドは『自分を鍛えてもらう神聖な場所』ですからお辞儀をして入り、お辞儀をして
出てくるのです。ベースボールも日本では野球道となるのです。
日本の国技『相撲』ですら、人気が低迷し入門者が激減した時、海外から「土俵には金が埋まっている」と貧
しい人を呼び寄せ「強くなれば素晴らしい生活ができるから」強くなれ強くなれ、と日本式の厳しい稽古(伝
統)を押しつけ(ちょっと言い方は酷いですが…)ました。いざ強くなって横綱になれば、やれ「品格がない」
などと「健全なる精神は…」論を持ち出してくるのです。
純粋な野球少年だったであろう、元プロ野球選手の(引退してからもバラエティー番組などに出演し人気のあ
った)K原選手も、桁違いの大金を稼ぐようになり、周りからちやほやされていくうちに、純粋な気持ち、感
謝の心を忘れてしまい、覚醒剤にまで手を出してしまったことは、当時日本中に大きな衝撃を与えました。
まあ私たちは、宝くじでも当たらない限り(年末ジャンボも300円…毎年5回のジャンボ宝くじを買い続けて
45年、70万円近い投資の結果は3,000円の当選が1回、あとは全て300円、ホント「とほほ」です…、かな
り脱線してしまいました<(_ _)>)
人間性を変えてしまうような大金を得ることは無いでしょうから、カッコ付けて「お金があるからって、
幸せになれるとは限らないでしょ」なんて言っていますが、メガビッグで12億円当たったら(買わないですが)
人格変わらないでいられる保証なんてありません。
時代と共に日本のスポーツ界も変わってきました。マラソンで日本記録を更新すれば1億円。
かつて、月桂樹の冠をかぶせてもらって『名誉』だけを手にしていた時代からすれば、信じられないことです。
だからといって“お金さえ稼げれば、人間性なんてどうでもイイ”ということにはならない(特に日本では)と思い
ます。
どんなスポーツでも、最も大切なものがルールです。近代スポーツは全て厳密なルールの上で成り立っています。
そのルールを無視したら、競技そのものが成り立たなくなってしまうのです。
冒頭の井岡選手も、どうしても入れ墨をしたかったら、日本で戦う道を選択すべきではありませんでした。
サッカーは手が使えない、というルールが気に入らないからと、勝手に手を使えば、それはサッカーでなくな
るし「偶然当たったから反則にしないでね」では通らないのです。
法律でも、競技のルールでも時代にそぐわないものがあるのも事実です。
だからといって「勝手に破ってイイ」とはならないはずです。まず、ルールを変えていく(よう働きかける)べ
きです。武道を学ぶ私たちは、やはり『競技を長く続けている(たくさんのものを学んでいる)人=素晴らしい
人』でありたいと思います。
ですから技能の向上だけでなく、直接競技とは結びつかないもの(人格の完成・幸せの追求)も求めていきたいの
です。

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